すみません、タイトルのっかってみました。
しかし元ネタの映像はイイですね。
試合後のロッカールームでの魂の叫びのようなひとり言。
若い彼の言霊だからイイんでしょうね。
いい歳したオヤジが同じことしたら醜態でしかないですからね。
“若さの特権”ってヤツですかね。
さて、今朝も心地良い朝でしたね。
来週は7月ですから、梅雨明け後には例によって『蝉の鳴き声で起こされる朝』が来るのでしょうね。
このわずかな心地良い朝を満喫するためにも朝のお散歩を日課にしたい今日この頃です。
と思いながら、いつものように散歩せずに新聞を読んでいるとお気に入りのコラムが掲載されていました。
そのコラムは『養老先生のさかさま人間学』という産経新聞朝刊に月に一度(だったと思う)掲載されるコラムです。
今日のタイトルは『自分なりに、精いっぱいに』というもので、文を一部引用させていただくと“中年をすぎてから、人生って絵を描くようなものだという気がしてきました。地位も財産も才能も、ある人もない人もいます。絵の具や額縁が、たとえ高価な物でなくても、それを精いっぱいに使って、それなりに完成した絵を描こうとする。それが人生じゃないの。”とあります。
朝からドキッとしました。
人生を豊かにするものって人それぞれで、答えなんてないんですが、常に手の届く場所にありそうな気がするのです。
決して、人様に迷惑をかけたり、傷つけたりすることでしか手に入れられないものではない、とね。
また、人間だれしも40年以上生きたなら、自分なりの倫理観や死生観は持っとかないといけないような気もしますね。
そして自分なりのそれを認めてもらいたいと思うのと同じで、他者のそれも認めること。
これって、寛容や許容なんて言葉を持ち出さずとも当然のことなんですがね。
煽っても煽られてもダメですよ、オトナは。
養老猛司さんの文には続きがあって“人生は自分なりの作品です。国宝級の絵じゃないかもしれないけど、その人なりに完成するはずの絵です。絵の良さにくらべて、額縁がいまひとつ、という人もあります。額縁はりっぱだけれど、絵は果たしてどうかなあ。そんな人、毎日テレビで見ているような気もしますけどね。”と。
額縁がりっぱだと『おぉ〜』と絵の価値もわからずに感心して観てしまう私なんかは、ものの真贋を見分けることはまだ当分できそうにありません。
だからこそ本物に触れる機会を増やさんとですねぇ。
ただいかんせん玉石混交な世の中です。
あっ、養老先生のコラムは毎日新聞に掲載されているものを産経新聞が転載しているようです。(ググって知りました。)
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