針路偏向

 “あたりまえのことだが、他国については、自国の尺度で見ればすべてまちがう。国、あるいは社会または民族というものに二つのものなど存在しないのである。

 これもあたりまえのことだが、そういう多様さがありつつ、最後には「人間」という大きな均質性で締め括られるところが、この世のたのしさといっていい。

 さらにいえば、他国を知ろうとする場合、人間はみなおなじだ、という高貴な甘さがなければ決してわからないし、同時に、その甘さだけだと、みなまちがってしまう。このあたりも、人の世のたのしさである。”(『この国のかたち 六』司馬遼太郎・文春文庫)

 

 みなさん、健やかにお過ごしですか。

 先の文章は、1983年4月から1984年8月の間、『司馬遼太郎全集』月報33号から49号(文藝春秋)の中で掲載された『原形について』という文章で、私が所有する『この国のかたち』(文春文庫)という文庫本の第六巻に“随想集”の一つとして掲載されているものの冒頭をそのまま掲載させていただきました。

 

 治療所での空いた時間や就寝前に本を読むのですが、読むのが早いわけでもなく、どちらかというと気になる箇所を繰り返し読んだりするので、かけている時間の割には読めていないのですが、それでいて新しい作品に手を伸ばすことはなく、以前読んでいる作品を改めて読み直すので、これも老化の一現象だなと、最近は思うようにしています。

 

 そしてこの『この国のかたち』全六巻も、改めて読み直している中、先にあげた文章がここ数日頭の中に居続けているのです。

 

 もちろんこの『原形について』という作品は、この後も文章が続くのですが、このプロローグが頭から離れないのです。

 

 理由はわかっていて、歴史上の紛争、戦争といった人災が、ほとんどの場合この理解が少ない、または欠けていたことに原因があり、いまだに様々な地域で悲惨な出来事が毎日繰り返されていることへのやるせなさと、この文中の“国”を“人”に置き換えて自分自身を考えていることにあるんです。

 

 前者は、私なんかではどうにもならないことで、国の指導者ならびにその取り巻きの頭脳明晰な方々が、私を捨てて、公のために働いてくれることを祈るばかりですが、後者は、頭では理解しているつもりがなかなかどうしてな問題で、家族に対してでさえ、いや家族だからこそ『そこ言わんでもわかるやろ』と、自分の尺度で他人(家族)を見てしまっているのです。

 本をたくさん読んでいて知識が豊かな心の狭い人間よりも、無学でも心の広い、他者を思う想像力が豊かな人間にならねばと思うのですが・・・

 

 読む本、聴く音楽、新しい分野に飛び込んでみたいとは思うのですが、どちらも本来ストレス解消に役立つものなので、あえて無理して余計なストレスを与えるよりも、読みたい本、聴いていて心安らぐ音楽をこれからも繰り返すのでしょう。

 そしてますます偏向していくのでしょうね。

 ただ、映画だけは新しいもの好きなので、新進気鋭の監督が出てくることをたのしみにしています。

 

 人間って、やり慣れたことをするのが一番安心するのに、戦前生まれの男性に折り紙や園芸やお歌遊びをさせている風景をみると、なんだかやり切れない気持ちになります。